くにさんの気まぐれ日記

思うところ、思うがままに、勝手に書きます。

興奮剤で「ズル」をした代償

主治医が、よく口にする。
他の躁うつの患者さんはみんな、まず躁が消えて、それから鬱も消えていってフラットになるんだが、どうしてあなたの場合、躁がなかなか消えへんのやろなぁ…。

帰り道、つらつら考えていて、ふと思った。「興奮剤か?」

私が何とかして鬱でも睡魔や無気力症に抗って仕事を続けられるようにと懇願し、処方してもらった興奮剤。10年近く飲み続けてきた。

気分安定剤で躁を(もちろん鬱も)抑えようとしているのに、興奮剤で無理やり擬似躁転させていたわけだ。もちろん、興奮剤を服用したのは鬱の時に限ってではあるが、鬱から抜けた後もわずかでも興奮剤の効き目が残っていたならば、躁転を強めてしまったのかもしれない…

数か月前、主治医から上司らに直接説明してもらった。治療のためには興奮剤を止めたいと。その結果、病状によって必要最低限のことすら出来ない時があることを。だが、治療のためにはそれを理解してもらう必要があることを。

それ以来、興奮剤の服用量を大幅に減らした。どうしても薬を飲まなくては、重要な仕事をクリアできない場合を除いて。

興奮剤を大幅に減らした今でも躁が残るのは、興奮剤を服用していた時の躁転の勢いが、クセが脳に染み付いているのかも知れない。鬱から抜けると「よっしゃー、来たぞー、待ちに待った躁転だー!行けー!」というような具合に。まったくの素人考えではあるが。

まあ、根拠のない仮説ではあるが、他の躁うつ病の患者さんたちと私との大きな違いは、興奮剤を長期にわたり、頻繁に服用してきたこと。この事実は間違いない。

他の患者さんたちが仕事を離れている一方、「ズル」をして、興奮剤を飲んで仕事をして(いるつもりになって)いた私。このツケは、予想以上に大きいのかもしれない。とにかく、一刻も早く興奮剤と決別しなくては。

私の宝物

急ごしらえで作った決算報告および予算案、やっぱり不備があった。


会場から「収支が合わないのは何故だ?」との声。だが領収書や振込通知と出納簿は1円たりとも間違いは無いことを、自分はもちろん監査の方々にも確認して頂いている。訳が分からない。なぜだ???壇上で頭にすっかり血が上ってしまった。


「すみません、会計担当だけが壇上でひとり、理解できていません。一旦席に戻って修正させて下さい。」
ドッと会場が沸く。ひとまずやり過ごした。


「訂正してから後ほど再報告」ということで席に戻ったが、一度のぼせた頭はそう簡単には戻らない。


隣に座っていた事務局の方が誤りを指摘して下さった。その時は分かったつもりになるが、いざ、手元の報告書を見ると、何をどうなおせばいいのか分からない。


別の支社にいる、同期入社の女子が駆けつけてくれた。事務局の方と同じような説明をしてくれた。だが、分かったつもりになるものの、やっぱり理解できていない。(彼女には、学生時代、いつも私が数学や表計算ソフトの使い方を教えていたのに、彼女から算数を教わるとは予想もしなかった…)


私の様子を見ていて、いよいよダメだな、と思った大学時代の恩師もやってきて説明して下さった。「とにかく、この数字とこの数字を読み上げれば問題ないんだから」


さて、2度目の決算報告。もう、半ば受け狙いで行くしか無い。
「申し訳ありません。計算できない会計の再登場です」
再び会場が沸いてくれた。よし、少しはリラックスできたぞ。


皆さんのお陰でどうにかクリア。と思ったら、再び別の箇所への指摘。


「受賞者への表彰状、記念品代が収入になっているけど、これって受賞者から金取るの?」「それもいいかもしれないなぁ、賞を金で買えるのか」
一同大爆笑。


まあ、何だかんだで不備だらけだったが、多くの方々の助けでどうにか乗り切れた。もちろん、修正した報告書は宿題となったが。


本当にどうして自分はこんなにダメなんだろう。皆に迷惑ばかりかけて。いつになったら一人前の仕事ができるようになるんだろう。本当に自分が情けなくなる。会計の仕事も自分よりも優秀な人が大勢いるんだから、そういう人にやってもらった方が、みんなのためにも良いに違いない。いっそのこと、消えてしまいたい…。


いつもの思考パターンなら、多かれ少なかれ、こうなるだろうな。でも、なぜか今回はちょっと違った具合に考えられる。


こんなにしょーもない私のことを助けてくれる人たちがいる。会場のみなさんも私を叱責することなく、見守っていてくれる。これって自分が見捨てられてはいないと言うことだよな。これって、とっても幸せなことなんじゃないか?こんな優しい方々の存在って、私にとっての宝物なんじゃないか?そんな風に思えてきた。
未だに躁状態なのかな?認知療法の効果なのかな?月に一度会うカウンセラーだけじゃ無く、日頃職場で色々教えて下さる「カウンセラー」さんたちのお陰かな?


席に戻ったときに、室長が声をかけて下さった。「お疲れさま」。
「文字通り、冷や汗ものでした。喉もカラカラです」と私。
室長「いいんじゃない?ウケてたから」


本当に優しい人たちでいっぱい。自分は幸せ者だ。


総会が終わってから、恩師にお礼を言いに言った。
すると、「まあ、慣れだからなぁ、こういうものは」
さらに自責の念は小さくなった。だが、最後に
「だけど、来年もこんな具合に済まされるとは思うなよ」

 

しっかり釘も刺されました。これもまた、有り難いことです。

世話の焼ける教え子

出張中、学生時代の恩師に会った。いや、お会いできますか?と事前に連絡していた。
夕方の懇親会の後、先生に声をかけた。「もう一軒、行きませんか?」


いろいろと話したいことがあった。
学生時代、本当に親身になって指導して下さったのに、未だにこんな不甲斐ない有様なことを謝りたかったように思う。
これからどうすればいいんでしょう?などということは、相談したかったのだと思うけれど、それは今更する質問ではないから別にするつもりはなかった。多分。
卒業後も気にかけていただき、心配していただいたことにお礼の言葉を伝えたかったようにも思う。
最近、いろいろと吹っ切れてきて、「今がスタートだと思って頑張ります」みたいなことを伝えたかったような気もする。
多分、全部だったのだと思う。でも、全てがないまぜになって、自分でも何が話したいのか整理がついていなかった。とにかく、一軒の居酒屋に入った。


単純に「すみませんでした」とか「ありがとうございました」というフレーズを使うのも違う気がして、要領を得ない話をしていた。すると、先生の方から私が何を一番言いたいのか、求めているのかを察して下さったらしい。


「こんなことは、とっくの昔に教えたろ?」などと口にすることもなく、顔に出すこともなく(心中は分からないが)、しかし、やはり学生に話すようなことを噛んで含めるように言い諭して下さった。聞いていて、昔教わったようなことをもう一度教わっていることが気恥ずかしくもあったが、説得力のある言葉、背中を押してくださる言葉に勇気と自信が湧いてきた。「そうだな、この仕事、俺がやらなくて誰がやるんだ」と。

躁状態が私をいつもより前向きにさせていることは確かだろうが、それを差し引いても、今後、仕事で壁にぶち当たった時に、今回話していただいたことを思い出せば、前向きでいられそうな気がする。少なくとも、鬱の谷へとまっしぐら、などということは回避できそうな気がしてきた。


未だに手のかかる、世話の焼ける教え子で申し訳ありません。そんな教え子に、変わらぬ親身な指導。


先生、本当にありがとうございます。
今後の活躍で、ご恩に報いてみせたいと思います。

躁と鬱との歩み寄り

 鬱状態の時には、躁状態の心地よさの再来を強く望む私。

 躁状態の時には、鬱状態の私のことなど、すっかり忘れている私。鬱状態の時とはうって変わって、悩みなどひとつも無いような楽天家になる。

 

 いつもいつも、鬱状態の私と躁状態の私の関係は平行線。「いいよなぁ、躁状態は。早くまた、あの状態になりたいなぁ」という鬱状態の私。「何を悩んでいるんだろう?鬱状態の私は?人生ってこんなに楽しいのに」。両者が近づくことは無い。

 

 しかし、最近、少しだけ変わってきた気がする。

 

 鬱状態の私に、躁状態の私が楽観的に言う。「何を悩んでいるんだよ?そんなつまらないことにくよくよしてないで、楽しく生きようぜ」。鬱状態の私が答える。「お前はそう簡単に言うけれど、お前にこの俺の気持ちが分かるのかよ?」。

 躁状態の私に、鬱状態の私が慎重に言う。「おいおい、そんなに調子に乗って大丈夫かよ?そんなにはしゃぎすぎると、またガス欠で鬱状態になるぞ」。

 

 こんなふうに、鬱状態の私と躁状態の私が会話を始めたような気がする。理解し合えてはいないけれど、接点を持とうとし始めているのかもしれない。カウンセラーの先生は、「統合へと向かおうとしている兆しかも知れませんね」とコメントした。

 

 確かに、躁状態の楽観的な状態、楽しい気分と鬱状態の慎重さ、うまくバランスがとれればいいのかもしれない。

主治医を信じるしか、無いよなぁ

今日、精神科の診察で。

主治医「双極性の患者さんは、230人ほど診ているんだが、皆さん、まず躁が消えて、しばらく軽い鬱が続いた後に寛解するんだが…。どうしてあなたの場合は躁が消えないんだろうなぁ…」

私「やっぱり、興奮剤の影響でしょうか…」

主治医「いや、実はあなたの他にもう一人だけ処方しているんだが、その方も他の患者さん同様、まず、躁が消えていったんだ」

私「私の「寛解」は、もうここまでと考えたほうが良いのでは…」

主治医「いや、そんなことはないから。時間はかかっているけれど、必ずフラットになるから。今までを振り返れば、間違いなく良くなっているでしょう?」

確かに、ここで投げ出したら、今までの努力は水の泡。本やネットで調べても、主治医の処方は現在の躁鬱病治療の常識と言ってもいいぐらい、標準的なもの。薬同士の関係や私の場合の副作用からも、用量は変えようがないらしい。

薬を飲み続けることに嫌気がさし、投げ出したくなることもあるが、他の病気でも、一生薬を飲み続ける病気はいくらでもある。

腐らず、主治医を信じて、今まで通り薬を飲み続けるほかないのだろう。

それにしても、他の患者さんのようには躁は消えず、鎮静剤は他の患者さんたちの1/100の量で副作用に苦しめられ、その他にも主治医が「うーん」と首をかしげることが少なくない。一体どうなってるの?私の身体?私の脳みそ?

無益かつ有害な愚痴

愚痴るだけ愚痴って、
自分は一時的にはすっきりして、
せっかくの助言には耳を貸さず、
幾度も同じ愚痴を繰り返しては、
相手の貴重な時間を奪い、
相手を不愉快な思いにさせる。

ああ、なんて迷惑で馬鹿なんだろう、俺って。ムカっ腹がたってくる。

これも愚痴か。

解決策を考えて、自分が動け。愚痴ってる限り、いつまでも解決はしない。

それにしても俺って情けない。目障りだ。救いようのない馬鹿者だ。存在自体が迷惑だ。例えちょっとばかり存在価値があったとしても、存在することによる迷惑度の方が、それを上回るんじゃないか?死にたくなる。

それが嫌なら、せっかくの助言もしっかりと受け止めて、行動しろ。

有害かつ無益な愚痴

愚痴るだけ愚痴って、

自分は一時的にはすっきりして、

せっかくの助言には耳を貸さず、

幾度も同じ愚痴を繰り返しては、

相手の貴重な時間を奪い、

相手を不愉快な思いにさせる。

ああ、なんて迷惑で馬鹿なんだろう、俺って。ムカっ腹がたってくる。

これも愚痴か。

解決策を考えて、自分が動け。愚痴ってる限り、いつまでも解決はしない。

それにしても俺って情けない。目障りだ。救いようのない馬鹿者だ。存在自体が迷惑だ。例えちょっとばかり存在価値があったとしても、存在することによる迷惑度の方が、それを上回るんじゃないか?死にたくなる。

それが嫌なら、せっかくの助言もしっかりと受け止めて、行動しろ。