くにさんの気まぐれ日記

思うところ、思うがままに、勝手に書きます。

損して得とれ

   損して得取れ、か。

 

「病気の治療に逆効果かも しれないけれど、興奮剤を使ってまでして仕事をして(いるふりをして)、《病気と闘いながら仕事をしている頑張り屋》と評価されたい」という美徳にしがみついていたのかもしれないな。その方が、「辛いのに、頑張ってるな」
と褒めてもらえて得だと信じ込んでいたのかもしれないな。
 
そんな思い込みを捨てて、興奮剤など飲まずに、「病気だから、寛解までは、ろくに仕事できませーん」「興奮剤は体に悪いので、飲みませーん。だから、存分に昼寝させて下さーい」と、給料にほとんど影響しない「業績評価」を捨て、「頑張り屋」の評価を捨てた方が、治療効果が早く得られて自分にとって本当に得なんだよな、きっと。実際、15分程度の、病人には足りない仮眠で我慢して、足りずに結局、仮眠を繰り返すよりも、1時間半ほどガッツリ熟睡した方が、身体も頭も楽で、仮眠後の能率も上がったと感じている。
 
「そんなんじゃ、クビになるだろ?」って? いや、うちの会社、寛大だから、多分、大丈夫。
 
「それはお前がラッキーだっただけだろ」って?運も大きいだろうけれど、それだけじゃないよ。見たいテレビも見ず、遊ぶのを我慢して、授業料の足しにとバイトを続けて勉強したから。高校時代からひどい睡魔にさいなまれつつ、躁うつ病のせいだとは分からず、原因不明で何の治療もできなかったけれど、テレビも遊びも我慢して勉強したから。勉強したのは、褒められたいからじゃなくて、希望の大学に進みたかったから。目先の給料にとらわれず、就職先を慎重に選んだから。
 
だけど、お金の使い方って、難しいよなあ。カミさんの癌が再発、転移して、高額な医療費がかかるようになってから、「あの時のお金、とっておくんだった」と泣くかもしれないし。癌による死亡率は高いし、高額医療費に苦しんだ人、何人も知っているし。カミさん、俺のミスでガン保険にも入っていないし…。
 
おふくろは「墓の中まで金は持って行けない」などと言いつつも、遊ぶのも美味しいものを食べるのも我慢して、しっかり保険に入り、貯蓄してくれているから、俺ら子どもたちは、割と安心していられるし…(墓に入るまでの分は、確保しておいたわけか)
 
何が損で何が得なのか。「自分への投資」なんていう言葉もあるな。考え出すと、難しいな、これ。
 

プラス思考?ただの躁転?

 先週の出張、森林調査では、私はホントに全く何にも完全に間違いなく、役に立たない上に、みんなの足を引っ張り、負担をかけ、迷惑をかけてばかりいた。
 それなのに、今は「申し訳ありません」と「ありがとうございます」の気持ちはあっても、「自分みたいな役立たず、死んで消えてしまった方が良い。そうしなくてはいけない」というような感情は、ほとんど浮かんでこない(全く無いわけでは無いが)。

 これって、私の考え方がポジティブになってきたからなのだろうか?
 それとも、今は躁転していて物事を自分に都合の良いように考えてしまう(ことができる)からなのだろうか?

 カミさんと話をしていると、「躁転じゃ無いの?」と言う。私もその可能性の方が強いように感じている。
 私のネガティブ思考がポジティブな方向へと改善されてきたのか、相変わらず躁状態に転じているのか、そう簡単には分からない。前者なら素直に喜べるが、後者だとすれば相変わらず改善していないことになる。
 「ごちゃごちゃ考えずに、物事は良い方にとればいいじゃないか」と思われるかも知れない。だが、躁状態なのに都合の「良い方に」とって自分を野放しにすると、また独り善がりの言動に暴走して、症状を悪化させ、周囲にも迷惑をかけまくることになる。

 とにかく、見極めが難しい。でも、自分が今、どの状態にいるのか、どうしなくてはいけないのかを、常に監視し続けなくてはならない。細心の注意を払っているつもりでも、まだまだ失敗ばかりを繰り返している。

 早くこんなセルフチェック、セルフモニタリングとセルフコントロールの日々から抜けだしたい。
 あーあ、本当に躁鬱病って面倒くさい。

もしかして、過換気症候群(過呼吸症候群)?

 山に調査に行って現地に着いたものの、ヘトヘトで動けない。息が苦しく目の前が暗い。貧血か?室長に「治まるまで休んでいていいぞ」と言われ、お言葉に甘えて休んでいたら、1時間以上も爆睡。いかん、またやってしまった!

 室長と同僚の2人に合流し、樹木のナンバリングを始めた。斜面を等高線沿いに移動しながら、斜面下方に向かって。

 斜面を登ったり、あるいは登ったり下りたりする動きに比べれば、はるかに楽な作業。それなのに、息が次第に上がってくる。まだ酸欠なのか?肩で大きく息をしながら作業を続けたが、ますます息が苦しい。時折、大きく息を吸ってみるが、息はますます荒くなり、胸は苦しく、動悸と目眩までしてきた。こんな症状、経験したことあったか?1時間も爆睡して、その後に昼飯を食べて、それから作業を始めたのに、こんなにも体力無いのか?俺は?結局、作業の2/3程度を終えたところで「もう限界」と倒れ込んだ。

 同僚が、「明日は天気次第で上がってこれるか分からないし、今日中に目処を付けておかなきゃだめだ」と、「もう少し休んでから」と言いつつ、いつまでもハアハアゼーゼー言って寝転んでいる私を見て、続きの作業をやってくれた。
 しかし、彼が戻ってきても私の呼吸は治まらない。痛み止めを飲んでいるために気分安定薬を減らしたり、興奮剤を倍増したりはしているが、こんな副作用って出ただろうか?熱中症?リチウム中毒?いや、水分は十分に取っている。脇の下や太もものつけ根も、濡れタオルで冷やしている。貧血?脚を高めにして、ベルトも緩めてある。だが、症状はなかなか治まらない。

 結局、何が何だかさっぱり分からないまま、気がつくと症状は治まっていた。そして、ただでさえ思い機材を背負っている上司と同僚に、私のザックの荷物の多くを預けて、どうにか無事に下山した。

 宿に戻ってからも、原因と対処法が分からないと翌日以降が一層不安になるので、あれでもない、これでもない、と色々と考えたり調べたりしてみた。そしてたどりついたのが、過換気症候群過呼吸症候群)。
 急斜面での運動、室長や同僚に迷惑をかけたくない、いや、すでに大いにかけているという心理的ストレス。原因と症状は一致している。可能性は高そうだ。

 次回の調査、危なそうだったら抗不安薬をあらかじめ飲んでおいたら良いのだろうか。

躁状態という、『元気な』具合の悪いとき

 昨年一年間、私の毎日は調査の準備や諸連絡、実施にデータ整理にと、調査の実施に追われて終わった。普通の人なら片手間にでも出来るような簡単な仕事なのだろうが、私のような無能な人間がやるとそれで手一杯。毎日のように、ため息をつきながら。晩秋になり、一連の調査が終わると、緊張の糸が切れ、すっかり鬱状態に陥ってしまった
 直接か間接か忘れたが、その話しを聞いた室長が私に「分担しような」と言ってくれた。

 

 今年も3箇所ほどの調査対象地がある。先日、私は「そうだ!」と思い付いた。「分担しよう、と言ってくれたんだ。3箇所のうちここの連絡調整はお願いしよう。私しか調査のことについて把握していないと、もし私が死んだりしたときに、困るしな」

 早速、室長に言った。
私「〇〇への連絡、次の出張後で良いのでお願いできますか?」
室長「え?俺が連絡するのか??」
私「あ、いえ、お忙しいでしょうから私がやっておきます」
 結局、通常通り私が連絡を取った。どうということはない。連絡は何本かの電話とメールですぐに済んだ。いつもやっていることでもあるし。

 

 後に、室長からこう言われた。「一連の〇〇の調査は君の仕事だからな。君の体調が悪いときには仕方が無いから俺がピンチヒッターを務めるが、『元気なとき』にあんな話しをされてもこっちだって困るぞ」と。

 

 『元気なとき』。それって実は、元気そうに見える『躁状態という、鬱状態同様に具合の悪いとき』なんです。過眠も必要ないし、出勤、残業、出張はまったく苦になりませんが。躁状態だから、考え方がどうかしているから「そうだ!室長にも分担してもらわなくちゃ!」と、訳の分からないことを思いつき、考え直すことも無く、当然のこととして、即座に、躊躇無く、実行に移す。

 

 『具合が悪いから、元気に見える』躁状態。健常者には解しがたいだろうな。私が健常者だったとしても、理解できないだろうしな。
 やっぱり、今後のこともあるし、説明しておいた方がいいかな。でも、躁状態の時に説明すると、碌な事にならないかもしれぬ。ますます誤解を招くかも知れぬ。そうかといって、鬱状態の時に説明しようとしても、伝えるべき内容を正しく伝えられる自信が無い。中庸状態?いつだろう、それは?

 考えを整理してメールで送るのも、「同じ部屋にいて、いつでも話せるのに、何故メールなんかで言ってくるんだ?」と、心象が悪いだろうし。どんな時に、どう伝えるのがよいのだろう。

頑張れない自分をゆるしてやって。だって、病人だもの

 睡眠時間がやたらと長くなってきた。10時間眠っても全然足りない。どうやら躁から鬱へと転じたようだ。明日から一週間の山林調査だって言うのに参ったなぁ。そもそも今回の出張、6月に大鬱になって行けなくなり延期したのだというのに。

 でも、今のところ、酷い「心の鬱」には至っていない。「自分はなんの役にも立たない」「自分は迷惑をかけてばかりいる」「自分なんて存在していてはいけない、消えるべきだ」、そんな前回の大鬱の時にあったような感情は来ていない。睡魔は「体の鬱」の段階。

 ただ、調査実施の段階で鬱が悪化すると、再び「自分不要論」が顔を出すだろう。自分を否定する気持ちが鬱を悪化させ、平地を歩く気力さえ失せてしまう。こうなると前回同様、大鬱への悪循環。轍を踏んではいけない。

 当然ながら、すでに明日からの調査がきちんと出来るように、関係部署への連絡、資料、野帳の作成、必要な道具の準備等々、調査のお膳立ては済んでいる。調査の段取りの打合せも完了。
 そして幸いなことに、調査を手伝ってくれる人たちは、私が躁鬱病であること、躁鬱病がどんな病気であるかをある程度理解してくれている。「病人だから、ダメなときはダメ」だと、ある程度は理解してくれている。

 (あるカウンセラーのブログからの受け売りもあっての考えだが、)私は体調が悪いのに、みんなに迷惑をかけないように、無理して
それでも十分に働けない自分を許せなくなる。そして、その感情が心の鬱を悪化させる。あとはその悪循環。

 いいんだ、無理なときは頑張れなくても、頑張らなくても。だって、病気なんだもの。仮病じゃ無いのだもの。みんな分かってくれているのだもの。これまでの準備段階で必要なことは、すべて済ませたのだから、最低限の責任は果たしているんだ。もし、調査の実施段階で体調が悪くて動けなくなってしまったら、「申し訳ないけど、どうしようもないから」みんなに託してしまおう。それでいい、きっとそれで大丈夫。

 それに、こうやって自分を追い詰めずにゆったりと構えていられたら、鬱状態になったとしても、それほど悪化せずに済むに違いない。希望も込めて。

頼らないから迷惑をかけていた?

 月曜日からの出張が楽しみだ。6月に大鬱で延期した調査。
 楽しみだと言っても、躁状態からでは無さそうだ。ここ数日、睡眠時間が長い上に、日中もやたらと眠くて昼寝は必須。眠いと真っ直ぐ歩くのも難しい。食欲も抑えられない。明らかにうつ状態だ。これより悪化しないといいが。
 でも、体が鬱でも気分が鬱になっていないから、出張が楽しみだと思えるのだろう。今までと何が変わった?

 興奮剤を飲まないと決め、そのことを主治医から上司らに説明してもらい、辛いときには無理せずに頼ればいい、そう言ってもらえた。あるいは、以前からもそう言われていたのかも知れない。
 今までは、自分が自分であるためには、興奮剤を飲んでまでしてとにかく頑張らなくてはいけない、そう思っていた。
 でも、興奮剤を使わないとなると、頑張ろうにも頑張れない。そして、今まで興奮剤を飲んで見かけ上「頑張って」いたが、薬を止めるために「頑張れなくなること」を主治医からの説明で上司らに理解してもらった。
 その結果、自分が「頑張れない人間」であることを、周りの人以上に自分自身が認めたのかも知れない。「頑張れない人間」が働いていくには、生きていくにはどうすればいい?身近に自分を理解して、支えてくれる人たちがいてくれるのならば、「無理しなくていいから」との言葉に頼ってしまおう(もっとも、周囲に自分を理解してくれる人たちをいかに確保するかが、重要な問題だが)。
 「頑張れない人間」。このレッテルを他人からも自分からも貼られるのが嫌で、頑張れないくせに頑張ろうとして、いつも鬱の深みにはまり込んでいたのかもしれない。でも、「頑張れなくても仕方が無いんだ」「無理して頑張らなくてもいいんだ」「最善を尽くした上で、これ以上は無理、という時には他人を頼ってしまっていいんだ」。こう考えられるようになると、むしろ気楽になれる。気軽になれれば体が鬱になりつつあっても、心の鬱はさほど悪化せずに済む。だから、出張が楽しみなのかも知れない。

 私の身近なところに私の理解者がいて、その人の働きかけで理解者が増える。その人たちの影響でさらに増えているのかも知れない。有り難いことだ。この状態にあぐらをかかないよう、肝に銘じなくては。

役に立つと良いな、私の代弁。

 躁鬱病の私は、何人かの上司からこう尋ねられることがある。

 「今はこういう質問をしても大丈夫かな?あなたのような病気を抱えている方に接するとき、こういうときはどうしたらいいのだろう?どうしたらいけないのだろう?」「全社的にも鬱病の社員が増えつつあって、どう対応したら良いのか悩んでいるんだ」などと。

 個人差があることを前置きした上で、自分だったらこういうときはこうして欲しい、欲しくないと言ったことを伝える。
 また、私の場合は躁鬱病なので、鬱病の方とは違うことも多いかも知れないとも付け加える。

 こういう質問をされたとき、私は非常に嬉しく思う。こう聞いてくれる上司たちは、私だけでなく、私のような病気、すなわち鬱病躁鬱病に悩み、苦しむ職員のことを理解しようと、手がかりを求めている。気分障害の場合、患者の側から声を発して会社に対して理解を求めるのは難しい。誤解されやすい。誤解が拡大しやすい。会社の方から患者のことを理解しようとしてくれるならば、誤解が生まれたにしても、徐々にその誤解は消えて行くにちがいない。

 私の代弁が少しでも役に立てば嬉しい。ただ、私の場合、躁状態があるためか、それとも単に思慮が足りないためか、調子に乗って余計なことまで言ったりやったりする嫌いがある。そこだけは、十分気をつけなくては。