私が不要になったのは、私が必要だと認められたから?
私たちが仕事で森林調査をするときには、基本的には司令塔となる野帳マン(ノートにデータを記入する人)を決め、2~3人が測定した値を野帳マンに伝えながら進めていくのが標準的なやり方。教科書にもそう書いてあるし、大学でもそのように教わった。私も就職後、十年以上、自身が野帳マンとなって調査を行ってきた。
しかし、ここ数年、いつも同じメンバーで何年も調査を続けるうちに、今は違うスタイルになっている。測定者各自がデータを野帳に記入し、後でデータを取りまとめるようになった。どうしてこうなったんだっけ?この方式だと、効率は若干落ちるのに。
単純な理由だった。私が野帳マンの役割を果たせなくても調査ができるように、手伝ってくれるメンバーのみんなが工夫してくれた結果だ。
最近まで、そのことに気付かずにいた。いや、気付いていても、受け入れられずにいたのかも知れない。
しかし、実際問題、私は「あてにならない」じゃないか。うつ状態が酷いと山道を歩くのも皆について行けず、判断力も低下しているから適切な指示も出来ない。
睡魔に襲われ、急斜面でも立っているのがやっと。室長に「しばらく休んでいなさい」と言われ、合羽を着て山の上で1時間ほど熟睡したことが2回。躁鬱病とは関係ないが、橈骨神経麻痺で2週間近く左手が使えなくなったことも。何年かに一度見舞われる、原因不明の激しい頭痛と熱で一日宿で寝ていたり。
だから、今の調査のスタイルは、私が必要ないからでは無く、体調の悪い私に対する配慮の産物なんだ。
私はしばしば、こう感じてきた。
「私がいなくても調査は出来るんだ」→「私なんかいてもいなくても同じだ」→「いや、私なんかいない方がいいのかもしれない。そうに違いない」
でも、本当はそうじゃないんだ。
「私がいなくても調査は出来るんだ」→「それは、私が働けなくても調査ができるように、みんなが私のために工夫してくれているからだ」→「体調の悪いときは無理せず、申し訳ないけれど、優秀なみんなに甘えて、安心してお任せして、休ませてもらって良いんだ」
そういえば、室長が時々、こう言ってくれる。「俺は、調査のイニシアティブは誰がとってもいいと考えているんだ。必要なデータがきちんと得られれば」と。
実は、こんな単純かつ重要なことに気付いたのは、興奮剤をやめることについて、昨日、主治医から上司らに説明してもらったのがきっかけだ。説明後、庶務係長が言ってくれた。「早く病気を治すためなら、この薬を飲むのはやめましょうよ。出張の時だって飲まないようにして、みんなに甘えて任せてしまいましょうよ」と。
そうか、頑張っていないと自分の存在意義が無くなってしまうようで、不安でならなかった。でも、みんなが私の存在意義を認めてくれているから、私がいなくても仕事が達成できるように工夫してくれているんだ。だから、無理して頑張らなくていいんだ。無理なら頑張らなくていいんだ。無理なら甘えちゃえばいいんだ。私が不要な訳じゃ無いんだ。
室長の言葉は、頭では理解できても、心のどこかで「自分がやらなきゃ」という意識が消えずに、すんなり飲み込めずにいたように思う。
庶務係長の「みんなに甘えて任せてしまいましょうよ」の言葉。
2人の言葉がセットになって、ようやく胸の中にストンと落ちてきた。
それにしても、多くの人に理解してもらい、支えてもらっている私は、本当に幸せ者だ。